スペシャリティコーヒーとサステイナビリティ、スローフードを考える上で、おもしろいなと思った記事をご紹介します。コーヒーを通じて、こんな風にゆったりとした人生を楽しむサポートが我々にもできればと思ったしだいです。

私だけの環境コミュニケーション
<Japan For Sustainability共同代表 多田博之>

私の趣味は将棋や焼物をはじめとして和事が多いのだが、不思議と和服とはご縁がなかった。紋付羽織袴で結婚式に出たこともあるが、あまりに大変なのでやめてしまったし、旅館で時折着るゆかた程度だろうか。私にとってのきものは非日常であった。

それがある呉服屋さんとの出会いで目が覚めた。きものを着るという行為は、着る者がつながりの連鎖を引き受けることに他ならないことを知ったのは、驚きと喜びだった。縦糸と横糸、つむがれる糸の上には、数多くの職人さんや商人が存在し、それぞれがタテ方向に伝統の技を伝承し、ヨコ方向には地域を越えて信頼関係の上でたすきを渡してゆく、その曼荼羅のようなプロセスと関係性を教えていただき、俄然きものがおもしろくなった。この数ヶ月、機会あるごとにせっせと和服を身に着けている。

着ることで、風景はたしかに変わった。風景とは精神の照射であることを実感した。きもので野暮な立ち居振る舞いはできないのであって、精神のムリ、ムラ、ムダが、きものの潔さによってきれいさっぱり削ぎ落とされていく。そのことによって、眼前の風景が進化していく。

たとえば普段の私は、「これからどちらの山を登られるのですか?」といわれるサイズのリュックを背負って会社に行き、オフもせわしなくかけずりまわっている。「人生とは重き荷を背負い、遠き道を歩むがごとき・・・」を地でいっている。中にはパソコンだ、スポーツジム用品だ、本だ、書類だ、手帳に、文房具、お菓子まで、はちきれんばかりにモノ、モノ、モノが入っており、日々愚行と知りながら、中身を軽くすることができなかった。

ところが「きもの」は、野暮を拒否するという一点において、私にこのリュックを背負わせない。着物の私には、身の丈にあった小さな手提げしか許されず、知恵をしぼって「選ぶこと」「捨てること」「持たないこと」で、本当に必要なものだけが、自然にきものと私の手元に残ってゆく。

現実に「持たないこと」で不便に遭うこともしばしあるが、その時は「借り」ればよい。困っていれば、誰かが助けてくれる。その縁に私は感謝し、今度は自分が誰かを助けたいと思う。そこに連鎖が生まれる。

きものでせかせか走ったりはしない。ふだんならリュックごと身体をぶつけるように駆け込む電車を、微笑をもってやり過ごし、次に通過の急行が来ようが、片隅のベンチでゆるゆると文庫本をひろげる。そこにゆとりが生まれる。

着流しでぶらりと散歩に出る。適度に汗をかいたら、オープンカフェでビールを一杯だけ飲む。そこに内省が生まれる。

きもので大量にばくばくモノを買うことはしない。だいたいがスーパーのビニール袋ほどきものに似合わないものはなく、買い物をするときは麻袋を持参して、それに入る量のものしか買わない。そこに省略が生まれる。

きものがこうして日常化することで、何の背伸びもムリもなく自然に私にもたらされたものは、

― つながりへの再認識
― 「所有」から「レンタル」へ
― スローライフ、スローフード
― グリーン購入 (必要ないものは買わない)

等など。 あれ、これって、エコライフではないの。
きものというかたちが、このように私の精神のあり方を規定していくのである。

私の環境コミュニケーションとは、このような小さな経験の積み重ねである。私にとってのステークホルダーとは、森羅万象、魂の宿るものすべてである。人もモノも、すべてはつながっている。縦糸と横糸とが織りなすように。つながりの中で、ささやかでも「気づきと進化」のサイクルを回していくことで、ライフスタイルはそれでも少しずつ、しかし劇的に変わっていく。そうしたあり方でしか、世にいう持続可能な社会はできないのではないか、最近の私はそんな風にも考えるのである。

※このエッセイは"アイソムズ 04年8月号"から抜粋しました。